全連と私
篤志解剖全国連合会 第七代会長 内野 滋雄 篤志解剖全国連合会が生まれた頃は、解剖体が極度に不足し、全国の医歯系大学では献体の団体を作り解剖体の確保に真剣に取り組んでいた。売体などがささやかれていた頃である。献体はあくまで無条件無報酬の篤志行為であり、この理念を普及しようとして創世期の人々は努力を続け、言わば手弁当で運動を拡げてこられた。その方々の中から歴代の全連会長が生まれ、財団法人日本篤志献体体協会の理事長が生まれてきた。 昭和60年11月21日、献体運動では絶対に忘れてはならない郡司虎雄全連会長が急逝された。その後任には三橋公平氏が代行を務め61年から会長になられた。ところが62年3月で札幌医大を定年になるため、大学部会の代議員の席を失い辞任せざるを得ないという事態になった。当時,私は献体運動の歴史と功績から見て、江藤盛治、森田好雄、佐藤達夫3氏のどなたかが会長を務められるべきだと考えていた。3氏は若い頃から献体運動の実務を担当された大功労者である。昭和62年は私が会頭で第92回日本解剖学会総会を東京医大で開催することになっており、従って第17回全連総会の当番でもあった。総会が近づくにつれ日々多忙を極め、無事にすむことのみを願っていた。全連事務局長の佐藤達夫教授から「三橋先生ご退職の後の残任期間をやってくれる人がいない。総会が混乱すると困るので,是非一年だけでも会長を引き受けて欲しい」と懇願され、当番校として総会をスムーズに運びたい一心でお引き受けした。私は献体運動でも後発組で実績からいってもその器ではない。何としても江藤、森田、佐藤(達)3氏を会長にするのが私の責務だと信じ、その後を行動した。 幸い、3氏は実績、人望ともに備わり,その後それぞれ会長を務められた。ただ森田氏を会長に推した愛媛での理事会、総会では、固辞される森田氏を「全面的に支援する」と言って無理に引き受けていただいた。これが森田氏の寿命を縮めたのではないかと悔やまれるが、3氏に会長をお願いすることは献体運動に携わってきた人の礼儀でもあると思っている。 献体運動の創世期の事務局は大学に置いていた。全連は東京医科歯科大学、協会は東大、日大などである。経済的にも止むを得ない措置だったと思う。その後、当時の東京都続副知事のお世話でヒルトンホテルの地下の一室を拝借し協会と全連が共同作業を行うことができるようになった。ここは至便の場所であるが、西新宿の地下街となるため今年度中には移転しなくてはならない。 献体運動は、解剖体の不足から充足、又、過剰の時代と歩んできた。事務所移転を機に新たな目標を求め日本の精神運動の一つとして発展させたいものである。
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